1.夢現嗜好症 1-2

 いつもと変わらぬ通学路。

 相も変わらぬうだるような暑さ。

 水面のように涼しげな青空に浮かぶ太陽の光は無垢むくな純白。肌を焼く白日は、通学路の彼方を溶かしていた。

「あっつぅ……」

 蝉時雨せみしぐれに濡れそぼった坂道を登りながら、制服の胸元を引っ張って空気を送り込む。けれど、そんなんじゃ夏の暑さは消えない。

 むしろ一瞬だけ胸元が涼しくなっただけで、その後の暑さが逆に辛い。

 肌は汗で湿り、服が張りついて気持ち悪い。

「なんで、こんな朝っぱらから、暑ぃ思いしなきゃなんねぇんだよ」

「しょうがないだろ。もうすぐで夏休みなんだから、我慢しなよ」

 隣を歩くがシュン、そんなクソ真面目なことを言ってくる。この暑い中でこいつの正論を聞かされるのは、本当にストレスが溜まる。

 ガラスの破片のような木漏れ日が散らされた坂道は、多少涼しくはある。それでもこの坂道を登る労力が相当なものであることに変わりはない。

 こんな夏場に、坂を登るのはもう苦痛でしかない。こんな苦労した末に辿り着くのは学校という煉獄れんごく。そこで役に立つかどうかも分からない知識を詰め込まれるという、自由なき拘束を受けることになる。

 帰りてぇ……。

「あー、くっそ。クーラー……セッター……ふーろー……」

煩悩ぼんのうの塊だなぁ、もう。それに未成年なんだから、こういうとこでセッターとか言わないの」

「誰も分かんねぇよ。そんだけじゃ」

 別に周りに人がいるわけじゃねぇし。それに高校生で、セッターと聞いて煙草と分かる奴は大抵同じ未成年喫煙者だ。

 俊は本当に良識を重んじる善人だ。偽善者じゃないことくらいは分かる。ただ、いささか融通が利かない。

 柔軟じゃないわけじゃないんだけどな。

 それにしたってどうかしてる。こんな不良な俺にお節介を焼くなんて。

 バカとしか言いようがないだろう。

「そういえば今日はバイト行くの?」

 シュンの問いは、降り注ぐ蝉の鳴き声に掻き消されてしまいそうだった。別にこいつの声が小さいわけじゃない。

 むしろこいつははきはきと、淀みなく真っ直ぐな声で喋る。それが逆に耳障りなんだが。

「ああ、多分行くんじゃねぇかな? 特に用事もねぇし。どうしたんだ、急に?」

「織田さんが、アキラに話したいことがあるらしいからさ」

「ふーん」

 ……正直、あいつ苦手なんだよなぁ。

 性格悪いし、根性悪いし、性根も悪い。

 あんま会いたくねぇんだけど、会うしかねぇか。向こうが話あるっていうなら、行かないと後が怖い。

 あそこは夏場、ずっとクーラーかけてるし、涼めるならよしとしよう。ついでに、なんかムダにオシャレなお菓子も拝借するか。

「話っつぅと、あれのことか?」

 日に翳ったこずえの天井を見上げ、ふと零す。

「……また、何かやらかしたの?」

「そうじゃねぇよ。思い当たる節はあるけど、俺がやったことじゃねぇ」

 怪訝けげんな顔で見てくるシュンに苛立った声で言って、俺は歩調を速める。

 何気にさらっと失礼なこと言いやがるよな、こいつ。

「だって、この前だって深夜徘徊してるところを補導されたんだろう? その上、煙草まで持ってるのまで見つかって――織田さんが来なかったら、危なかったんじゃないの?」

「別に深夜徘徊や煙草持ってただけじゃ、注意されるだけだよ。大体、なんでおめぇがそれを知ってんだよ?」

 隠していたはずの事を、如実に語られ顔が熱くなる。あの事はシュンには黙っていたはずなんだが。

 シュンは呆れ顔で肩を竦め、盛大にため息を吐き出した。

「知らないはずないだろ。織田さんから教えてもらったよ。全く、あれだけやめなって言ってるのに」

「は? 織田が? あいつ、黙っとけって言ったのに……!」

「そりゃ織田さんだって報告してくるさ。それに織田さんは年上だし、雇い主なんだから、呼び捨てにしちゃダメだよ」

 今更のようにそんな注意をされて、誰が頷くもんか、バーァカ。

 俺はあいつが嫌いだ。さん付けなんてするわけないだろう。

 それに織田だって何も文句は言っていない。なら、今から直す方がおかしいっていう話だ。

「とりあえず、もう深夜徘徊はしないこと。あと、外で煙草も吸わないように」

「うるせーなぁ……。散歩くらいいいじゃないかよ」

「散歩って……明るいうちにやればいいだろう? 学生は午後十時以降の出歩き禁止。最近は特に物騒なんだから」

 どんだけ善良なんだよ、お前は。そんなの守ってねぇ奴、腐るほどいるじゃないか。

 本当に面倒くさい。

「大体、そんな夜中になんで外に出る必要あるの?」

「そ、そりゃぁ買い物だよ。夜は小腹が空くから、食い物を買いに行くんだ」

 何をしてなくても、夜というのは腹が減る。晩飯を腹一杯に食っても、夜更かしすればそうなってしまうものだ。

 だから寝るのも勿体ないし、気分転換に近くのコンビニに行っているだけのこと。

 ただ、それだけのことだっていうのに。

 シュンは疲れ切ったため息を吐き出して、がっくりと項垂れた。

「それなら学校の登下校中に何か買えばいいじゃないか」

「あれは気分転換でもあるんだよ。夜は人がいないし、静かで落ち着く。夜行くからこそいいんだよ」

 それに夜中のコンビニの雰囲気は好きだ。

 客の少ない店内。気怠るげな若いバイト。雑誌の棚で立ち読みをするまばらな人影。品揃えの少ない、寂れた商品棚。

 閑散かんさんとした殺風景。その殺伐さつばつとした雰囲気は、どうにも体に馴染む。

 そこでぼんやりと商品を眺めるのが、俺にとっての楽しみだ。

「僕には到底分からないね、その心理」

「分からなくて結構。お前に理解されるような善良な考え方は、生憎持ち合わせていないんでね」

 つっけんどんな態度で言って、俺は歩調をさらに速める。

 もう付き合ってられない。

「やっほー! あっちゃーん! 元気してるかぁ!」

 このまま先に行ってしまおうと思った矢先、突然のうざったい声と共に背後から抱き付かれた。

「ぬあっ!?」

 思わず素っ頓狂な声を上げて、体が後ろに傾く。蹈鞴たたらを踏んで何とか倒れることを防いで、俺は体を前のめりにするが、背中に引っ付いたものは相変わらず、首に腕を回してぶら下がっている。

 汗の滲んだ素肌が首にくっついて、気持ちが悪い。ただでさえ、人に触れられることが嫌いな俺は、吐き気さえ感じる。

「弛んでるなぁ、あっちゃん」

しの……重い。うざい。暑苦しい。どけ」

「そう言わないでよー。女の子に重いとか言っちゃいけないよー」

 耳元で喋るな。息が耳にかかって、変な気分だ。

 鬱陶しいほどに元気な声は、耳障り以外の何でもない。

「お前、また太ったんじゃないのか? 前より重いぞ」

「そんなことないよ! 今日はちょっと荷物が多いだけだもん!」

「どうでもいいから、どけ」

 反論を切り捨てて、強引に背筋を伸ばすと、背中にくっついていた奴は滑り台を滑るように落ちていく。

 振り返ると、そこには能天気な笑顔を浮かべた級友がいた。

「改めておっはよー、あっちゃん! シュンちゃん!」

「ああ、おはよう。篠さん」

 千切れんばかりに  いっそ千切れろ  右手をぶんぶんと振りながら、まるで遠くにいる奴に声をかけるような声量で挨拶をしてくる篠に、シュンは清々しいくらいに誠実な笑顔で挨拶を返す。

 ……このハイテンションについて行けない俺がいけないのか?

 篠は二年になって同じクラスになった顔見知りだ。本人は俺の友達だって自称しているが冗談じゃない。こんな騒がしい女、ただの顔見知りでも嫌なくらいだ。

 ツーサイドアップ  ツインテールと言ったら、篠にツーサイドアップに訂正させられた  にされた黒髪は、一度金髪に染めた過去があるためかなり傷んでいて、肩にかかった毛先には枝毛が多い。制服はかなり崩していて、スカートの丈も短く、白い太腿ふとももをこれでもかというところまで晒している。

 目が大きく小鼻で、爽やかな美少女と言えばそうなんだが、突き抜けて明るい。明るすぎる。

 それを取り柄だという奴もいそうだが、俺には欠点にしか思えん。

「今日も一緒に登校だねぇ、羨ましいくらいに仲がいいのぅ」

「俺は朝っぱらから疲れるよ。何なら変わってくれ」

「ダメですよ。そしたら、あっちゃん学校来ないじゃないですかー」

 小柄で華奢きゃしゃな体でウサギのように跳ねながら、篠は弾んだ声でそんなことを言う。

 だから、学校に来ること自体疲れるんだろって。

「私の楽しいスクールライフには、あっちゃんとシュンちゃんが必要不可欠なんだよ。シュンちゃんのお陰で、あっちゃんも学校に来るようになって楽しいんだよ? だから、これからも二人仲良く青春全開の登下校お願いしますぜ」

 言いながら、篠はシュンの脇腹を肘で小突く。

「お前のために学校来るわけじゃねぇよ」

「じゃあ、誰のためですかい?」

「そりゃ……ッ!」

 意地悪な笑みを浮かべて訊いてくる篠に、当然の如く答えようとしてしまった言葉を咄嗟に飲み込み歯を食い縛る。

 なんとか失態は避けれたが、それを見過ごす篠ではなかった。

「何々? そりゃーぁ、なんなのさ? 誰のためなんだよー?」

「う、うるさい! 行くぞ!」

 ねちっこく訊いてくる篠を振り払って、俺は坂登りを再開する。

 背後で焦ったように俺を呼ぶシュンの声が聞こえてくるが無視。多分あいつは、俺が何を怒っているのかさえ分かってないだろう。

 それが、余計にムカついた。



 クーラーの適度に効いたコンビニの店内で、俺は昼飯のおにぎりを探す。

 坂を昇ってすぐの場所にある、うちの高校の生徒の多くが利用するコンビニだ。俺も昼飯はいつもここで買っている。

 陳列棚から流れてくる風は、汗に湿った肌に心地よい。

 店内には同じ高校の制服を着た連中がちらほらと見える。この時間帯はほとんど学生しかいないな、ここ。

 さて、何にしようか。

 今日はシーチキンの気分かな。あー、でも鳥五目ってのも捨て難い。梅は、昨日食ったばっかだし。

 ぼんやりと考えていると、背後で自動ドアが開く音が聞こえる。振り返ると、シュンと篠が仲良く入ってくるところだった。

 二人で仲良く話して、随分と楽しそうだ。はいはい、お似合いですね。

「あ、あっちゃん発見!」

 名前を呼ばれたが無視して、おにぎりを見つめる。知人と思われるのはあまり好ましくない。

「おーい、あっちゃん?」

「何だよ?」

 隣に寄ってくる篠に、仕方がなく視線を向ける。視界の端に、飲み物を選びに行くシュンの姿が映った。

 お前は来ないのかよ。

「あの連続動物殺傷事件知ってる?」

「一応」

 朝っぱらから物騒な話題だな。このゴシップ狂。

「今朝も鶏の死体が出たらしいよ?」

「あっそ」

 どうでもいい話題だ。ていうか、食い物選んでる時に、その話題はやめてくれないか。

「もー淡泊だなぁ。今回は近くの小学校で飼育されてた奴みたいだけど、相変わらずエグいらしいよー」

 ノリノリで話しながら、篠が擦り寄ってくるけど無視。

 とりあえず手に取っていた鳥五目は棚に戻そう。人間ならまだしも、今まさに買おうとした鳥五目の材料の話をするとは、どういう嫌がらせだ。

「お腹の肉が引き千切られて、内臓が抉り出されてたんだってぇ。きゃー、怖ぁい」

 欲しいおもちゃを買ってもらった時の子供ばりにはしゃいだ声で言うセリフじゃないぞ、それ。

「そんでさそんでさ、ミミズみたいな小腸とか、梅干しみたいな小脳とか、辺りに散乱してたんだってよっ! 見つけたのが一年生の女の子っていうんだから可哀想な話だよねーぇ!」

 鬼の首取ったように喜びやがって。

 うん、手に取った梅干しも棚に戻す。パンにしようかな、もう。

 あー、でもたまごのサンドイッチもあまり気が乗らない。

 どうすっかなぁ。

「ねえねえ、どう思う? この事件?」

「別に。今日の昼飯の方が深刻な問題だな」

 主にお前のせいで。

 大体、どういう答えを所望してるんだか。大したことなんか言えるわけねぇだろ。

「そんなこと言うけど、七月になってもう五件だよ? まだ始まって一週間しか経ってないのに」

「一週間経ってない。明日で一週間だぞ」

 今日は確か七月七日の月曜日だ。まだ一週目は終わっていない。

「なおさら問題だと思うけどなぁ」

「別に動物が殺されたって俺達には関係ないだろ」

「そ、そんなことないよ。あっちゃんだって、猫とか犬とか可愛いでしょ? ペットを殺されちゃった人だっているし、関係なくないよ」

「犬も猫も嫌いだ。それに外で飼われてる犬とかは、わんわんうるさくて仕方がない。だからどうでもいい」

 どっちとも本当に嫌いだ。そもそも生きてるモノ全般が俺は苦手。

 あまり関わりたくない。

「もう、釣れないなぁ」

「俺だからな」

 冷たく答えて、俺は後ろのパンの並んだ棚の方へと向かう。

 もういい。焼きそばパンにしよう。

 適当に焼きそばパンを引っ掴んで、俺は飲み物の棚に移動する。

 そこでは相変わらずシュンが飲み物を選んでいた。

「まだ選んでたのか」

「ああ、アキラ。いや、午後の紅茶にしようか、コーヒー牛乳にしようか、ちょっと迷っちゃって」

「そんなので悩んでたのか? 別に何だっていいだろ。というか、両方買えば済むじゃないか」

 言いながら、俺は三ツ矢サイダーを手に取って扉を閉める。さっきは邪魔されたが、俺はいつもほとんど迷わずに選ぶタイプだ。対して、シュンはくだらないことでいつまでも悩んでることが多い。

「いや、そういうわけにはいかないよ」

「分かりますよー。午後の紅茶もコーヒー牛乳も捨て難いですよねぇ。甘ったるいのがいいか、落ち着いた甘さがいいか。考えものですよねぇ」

 付いて来た篠が俺の背後から顔を出して、晴れやかに笑いながら言う。こいつの悩みなんて、所詮それくらいだろう。

「どっちも同じようなもんだろ。紅茶もコーヒー牛乳も」

「ち、違うよっ! 全然違うよ! 犬と猫くらい違うよ」

 何か必死で詰め寄ってくるが、むしろそれこそ同じようなもんじゃないか……。

 ていうか顔近い。鼻先に息かかる。篠は本当に信じられないモノでも見るように俺を見ていた。

「アキラ。さすがにそれは違うよ? というか、それは本気?」

「な、なんだよ? 同じようなもんだろ? どっちも」

「紅茶と牛乳が一緒なわけないじゃんかぁ!」

 な、何をそこまで真剣になる。

 色だって同じなんだし、大して変わりがあるわけないじゃないか。

「馬鹿馬鹿しい。俺は先に会計済ませるぞ」

 本当にこいつら面倒くさい。

 もう俺は、早く教室行って寝たい。

 こんな連中にいつまでも付き合ってられるか。

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