1.夢現嗜好症 1-1



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 俺は夏が嫌いだ。

 理由は言うまでもないだろう。だって、こんな季節を好きだっていう理由がない。

 何事も好きになるには、いいところを見つけるのが大事だと『誰か』がのたまっていた。ということで試しに夏のいいところを見つけようと思って、考えてみたところなかった。

 つまり嫌いということだろう。

 逆説的な理由を、のたまった『誰か』に言ってみたら苦笑混じりに頷かれた。あの時の、屁理屈を得意げに言う子供を受け流すような呆れ笑いがムカついて、ぶん殴ってしまおうと思ったがそれこそ子供染みてると思って、なんとか堪えたという思い出は今でも屈辱的だ。

 こうやって思い出す度に苛立つくらいなら、ぶん殴っておけばよかった。

   ん? 話がずれてるか。

 まあ、とりあえず夏は嫌いだ。

 暑いし、じめじめしてるし、蝉は五月蠅いし、汗はかくし、薄着をしなければならない。それに日焼けだってあまりしたくない。

 海水浴が楽しみとか言う奴もいるが、あんなのどこがいいんだか。

 風呂の方がずっと気持ちいい。くつろげるし、誰にも邪魔されないし、何よりしょっぱくない。

 海は陽射しが強い。人が多い。髪が痛む。

 そこまで嫌な場所で一体何を楽しめというんだ。あんなのでっかい水溜まりと変わらないじゃないか。

 閑話休題  と挟むために、結論を言ってしまおう。俺は夏が大ッ嫌いだ。

 粘ついた熱気の中、ベッドの上に横たわった俺はそんなことを考えていた。

 ……暑い。二度寝してしまいたいのに、暑さが寝る気力さえ奪っていく。開け放った窓から吹き込んでくる風はどろっとしていて気持ち悪く、全く涼めない。

 ガラス戸の近くに置かれた蚊取りブタの口からは煙が出ていない。

 ……そういや、昨日付けたまま寝たのか、俺。

 涼しげな音を鳴らす風鈴を一瞥する。吹き込んでくる風も、あの風鈴も、この夏の猛威を前にしては何の意味も成せない。

 やはりもう少し文明の利器を使うべきだろう。電気代も水道代も、ついでに家賃も払っているのは俺じゃないんだから。

 開け放たれていたガラス戸に足を伸ばして、ぐぐーぅいっと閉じる。ベッドの横の壁の出窓も寝転んだまま手を伸ばして閉じようとして失敗。止むを得なく体を起こして、閉める。

 ついでにベッドの枕側の向こうに置かれた、小さな冷蔵庫の上に積まれた物の山からリモコンを取って、電源を入れる。

 ピっと電子音が鳴り、エアコンが稼働し始めた。

 んー、クーラー最高。

 やっぱり人間、文明の利器に頼って堕落するのがあるべき姿だよなぁ。そのために人間は文明を発達させたわけだし。

 省エネ省エネ言ってる今でも、エコカーとかトートバックを作るのは楽したいからだもんなぁ。

 部屋は狭いから、すぐに涼しくなる。こういう時はいいよな、狭いのも。

 冷風に頬を撫でられ、心地いい。パジャマが捲れて剥き出しになったお腹がいい感じに涼しい。

 幸せだ。

 寝転がったまま、また冷蔵庫の上に手を伸ばす。山を築いた様々な物の中から目当てのものを手探りで探し求める。

 ベッドでくつろぐことが多い俺は、どうしてもここに物を置いてしまう。その結果、このように山を築いているわけだ。

 目当ての物を掴み、体を起こした。

 煙草を咥え、マッチを擦って火を点ける。

「あー、いいねぇ。この堕落三昧」

 外に出るなんてタルいタルい。やっぱ夏は引き篭もるに限るねぇ。

 そんな感じに煙草を喫みながらダラけていると、ふと物音が聞こえた。

 がちゃがちゃ、というこの音は、間違いなくあいつだな。

 あの『誰か』さんだ。いや、さんいらない。

 蚊取りブタとか、風鈴とかをわざわざ俺のために買ってくる、あのお節介焼きだ。

 あいつは合鍵で錠を外し、俺の部屋へと這入り込んできた。廊下を渡る足音と、板張りの床が軋む音。

 さほど距離もないので、すぐにこの部屋の扉が開けられる。

 現れたのは学校の制服に身を包んだ青年。間違うはずもなく高校生。

 黒い髪はとことん校則通りで、襟足は短く前髪も眉にかかる程度だ。その上制服もちゃんと着てやがる。

 背丈は高く、体付きも細い。結構モデルみたいな体型だし、細い顎や薄い唇、高い鼻梁びりょうと顔もなかなかいい。

 ちゃんと若者らしい格好をして、髪型も今っぽくすれば、少女マンガに出てきそうな爽やかな好青年になれるだろう。

 きっと、こいつはそんなこと気付いてないんだろうけど。

 そいつは入ってくるなり、俺を見て顔を顰めた。

「朝から煙草吸っちゃダメだよ、アキラ」

「うるさいな。別にそんなの俺の勝手だろ」

 開口一番保護者みたいなことを言ったそいつは、諦め顔で肩を竦めて部屋に入って来る。

 磯崎いそざき俊哉しゅんや  それがこいつの名前だ。画数が多いうえに、馴染みのない漢字が多くて、俺はこいつの名前が嫌いだ。

「珍しく起きてると思ったら、煙草吸ってるんだもんなぁ。僕の制服にも臭いつくからやめてくれないかな?」

「起きたのは暑いからだよ。そんなに嫌なら、いちいち来るな。頼んでもないのに」

「そういうわけにはいかないって。アキラは僕が迎えに来ないと、絶対に学校サボるでしょ」

 なんだ、その使命感。

 俺だって学校くらい行くぞ。いや、そりゃ校門を素通りして、適当に遊んで帰ってくることも多いが。

 こいつは本当にお節介焼きだ。俺を真面目に学校へ行かせるために、こうやっていつも迎えに来る。

 正直迷惑でしょうがない。これじゃぐぅたらできないじゃないか。

「あのなぁ、シュン? 何度も訊いてる気はするんだが、なんでお前はわざわざ俺に余計な世話を焼くんだ?」

「余計じゃないよ。アキラには真面目に学校行って卒業してほしいんだよ。君は別に勉強ができないわけじゃないんだから、真面目に受ければ優等生になれるはずなのに、単位を落としちゃうのはもったいないよ」

「俺は卒業したいなんて微塵みじんも思ってない。つぅか、退学になったらあいつらも諦めるだろ」

 俺の言葉に、シュンは痛みを堪えるように眉を顰める。

「自分の親をあいつなんて呼んじゃダメだよ。君を生んでくれた人なんだから」

「うるさいな。あいつは俺に何かを求めてるわけじゃない。ただ単に、みかどの名を汚したくないだけだ」

 シュンはまるで泣きそうな顔で俺を見ていた。

 こいつはいつもそうだ。私がこういうことを言うと、まるで自分のことのように哀しむ。

 なんだかもう面倒になって、私は頭を掻き毟って煙草を揉み消した。

「もういい」

「アキラ  

「学校には行くから、もう構うな」

 まだ何か言いたげなシュンは突き放し、俺はベッドから立ち上がる。

 こいつは本当にバカだ。俺に関わっても何もいいことなんてないっていうのに。

 どれだけ俺が突き放しても関わってくる。

 うざいし、しつこい。

 粘つく熱気が気に障る夏は、特にイライラする。

「着替える」

 苛立った声で言って、私はパジャマのボタンに手をかけた。

「あ、ちょっと待って。今出るか  

 言い終わる前にパジャマのボタンを外して脱ぐ。

 後ろでシュンがどたばたと部屋から出ていく音を聞き、少し満足げに俺は嗤う。

 バカだな、あいつ。



「入っていいぞ」

 制服に着替え終えて、そう言うとシュンが部屋に戻ってきた。わざわざ待っていたんだろう。律儀りちぎな奴だ。

 でも、その顔は明らかに呆れていた。

「カーテンを開けたまま着替えるのは止めるように、何回も言ったはずなんだけどなぁ」

「別に見られて困るものはないし、見る奴もいない」

「……んー、そういう問題じゃあないと思う」

 複雑な顔をするシュン。本当にこいつは細かいことにこだわるな。

 面倒な奴だ。本当に。

「あー、ほら。ここ乱れてるよ。それに埃ついてるし」

「気にすることじゃないだろ」

「身だしなみはきちんとしないとダメだよ」

 言いながらシュンは俺の制服を整え、手で埃を払い落とす。

   こいつは俺の母親か?

 なんとなくそんなことを思う。

 なるほど。確かにこうやって世話を焼かれたら反抗期にもなるな。

 うん、妙に納得してしまう。

「もう十分だろ。行くぞ」

 床に投げてあった鞄を掴み上げ、俺は部屋を出ようと歩き出す。

 鞄の中には菓子しか入っていないので、ぺったんこで軽い。当然、教科書は全部教室に置いてある。

 後ろではまだシュンがぶつぶつ言ってるが関係ない。あんなのは無視だ。聞くのもダルい。

 こいつに付き合ってたら本当に遅刻してしまいそうだ。

 ……て、なんで遅刻しないようにしてるんだ、俺。

 考えろ。今まで平気でサボっていただろ……。

 ああ、もう本当にやんなるな、こいつ。

 俺は、こいつが本当に嫌いだ。鬱陶しくて仕方がない。

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