1.夢幻嗜好症 1-4




     ◇



「最近は野良猫や野良犬などの小動物を狙った犯罪が多発しております。今のところヒト科の哺乳類への被害はありませんが、用心に越したことはありません。生徒の皆さんは押さない、駆けない、喋らない――「おかし」の信念を護りつつ速やかに登下校を終え、外出はなるべく控えるようにしてください。恋人との逢瀬(おうせ)もしばらくはお控えくださいね」

 教壇に立った先生は腕を組み、相変わらずの独特な語り口調で生徒に注意を呼びかけた。

 細見の長身にワイシャツを(まと)ったその教師の髪は長く、腰まで届くほどだ。色素の薄い髪は青に透けるような銀で、後ろ髪は緩く纏められている。

 唇に穏やかな微笑を浮かべた顔も整っており、まさに眉目秀麗(びもくしゅうれい)という言葉が当て嵌まると思う。高い鼻筋に涼しげな目元、薄い唇――およそ日本人とは思えないほどの美貌(びぼう)から、外国人とのハーフの可能性も噂されているが真相は定かではない。

 一度も白昼の下に晒されたことがないのでは、という疑問さえ抱かずにはいられない肌もまた目を惹く。女性のような細見も相まって、まるで病人のようでさえある。

 深窓の佳人(かじん)――という言葉がよく似合う。

 どことなく性別不詳な感じのする先生の名前は水月(みづき)鏡花(きょうか)――あの容姿でなければ釣り合わないであろう、綺麗な名前をしている。

 並大抵の美形では、絶対に似合わない名前といえるだろう。

 水月先生は学校での人気が男女問わず高い。その整った顔立ちもそうだが、落ち着いた物腰と真摯(しんし)な態度が理由だろう。

 毎年、彼が担任になったクラスは大きな問題も起こさず、理想的なクラスとなるらしい。まあ、実際、先生が担任するクラスにいると、それが納得できる。

 なんでも真剣に考えてくれるし、生徒一人一人を考えてくれている。アキラのこともいろいろ考えてくれるところは有り難い。

 普通の教師がアキラの相手をした場合、間違いなくアキラはキレて問題となるだろう。

 先生の物腰が柔らかだからこそ、問題を起こさずに今まで過ごせたんだと思う。

「それではホームルームを終了しますね」

 鈴の鳴るような澄んだ声で言って、先生は穏やかに微笑む。

「日直は日誌と戸締りの確認を忘れないように。部活は禁止されていますので、それ以外の生徒の皆様は速やかに帰宅してください。あ、なるべく一人では帰らないように。それでは皆様、さようなら」

 ホームルームが終わると、クラスの生徒達は立ち上がり、それぞれがそれぞれに動き出す。ある者は近くの生徒と談笑し、ある者は友達の席へと向かい、ある者は足早に教室を後にしていく。

 ふと、窓際の一番後ろの席に目をやると、アキラは机に突っ伏して眠っていた。

「はぁ……」

 いつものことではあるんだけど、学校が終わった時にアキラが起きていたところを見たことがない。

 ホント……少しは真面目に学業へ励んでほしいものだ。

 ため息交じりに、アキラを起こそうと席を立つ。

「あ、シュンちゃん!」

「ん?」

 聞き慣れた元気な声に呼ばれ振り返ると、そこには篠さんと智章が並んで立っていた。

「今日、どっか遊びに行きませんかぁ?」

 先生の話を聞いていなかったのか、篠さんは間延びした声でそんなことを言ってくる。

 んー、最近は物騒だから早めに帰るように言っていたはずなんだけど。

 まあ、何かがあるとは思えないけど、万が一ってものがあるしなぁ。

「智章も行くの?」

 本来なら智章も止めるべきかと思ったんだけど、智章は力なく苦笑いしてる。

「僕もやめておいた方がいいとは言ったんだけど、聞かなくて……。それなら男が一人くらい付いた方がいいかなって思って」

 そう言って肩を竦める智章――まあ、男が一人付いた方が安心だとは思うけど、智章も僕もあまり頼れる方じゃないからなぁ。

 逆にアキラとかの方が頼れそうだ。僕はいつもアキラに護られてるようなものだし。

 自分でも情けないことだけど、まあ、それはしょうがない。アキラに敵うこと自体、最近は人としておかしい気もする。

 そういう認識はアキラに怒られそうだけど、よしとしよう。悲しいことに、事実だ。

「どっちにしても僕もアキラも行けないかな。今日バイトだし」

「ああ、今日もなんだ」

 意外だったのか、智章が目を瞠る。

「うん、そうなんだよね」

「なんかほとんど毎日入ってない? シフト大丈夫なの? そこ」

「んーとは言っても、バイトなんて言いながらも、ぐーたらしてるだけってことも多いし」

 本当に何もせずに益体(やくたい)のない話に興じていることも多い。

「あー、そんなんでバイトなのか……なんだか余計に心配になってきた気もする」

 智章は困り顔で肩を竦める。

 気持ちは分かるかもしれない。何せ、僕とアキラがバイトしている場所は、占い師の事務所だ。しかもインチキ。

 そんなバイト先をまともと言えるはずがない。そんな場所でバイトしていると知ったら、間違いなく智章は止めるだろう。それは非常にまずい。

 何がまずかっていうのを具体的に述べるのは難しいんだけど、いろいろ不都合が生じてくる。

「まあ、いろいろとお世話になってるし、休むわけにもいかないからね。二人で楽しんでくるといいよ」

「ナナカと遊びに行っても、うるさいだけなんだよ」

「んがー! 失敬だな!」

「ほら、こうすぐに奇声上げるし」

「なーっ! いくら私だって許さないぞっ!」

 じゃれ合うような二人のやり取りは見ていて微笑ましい。

 いつも言い合っているけど、二人が本気で喧嘩しているところを僕は見たことがない。

 なんだかんだ言いながらも楽しんでいるんだろう。二人でいることを。

 言い合いばかりしてる二人だけど、話題が途切れたこともなさそうだ。

「アキラー? そろそろ帰るよー?」

 眠っているアキラに向かって声をかける。が、動く気配はない。

 相当、深く眠っているみたいだな、こりゃ。

 アキラは熟睡すると厄介だ。起こすのは大した労働ではないんだけど、起きた後の機嫌がすこぶる悪い。

 必然、起こした時一番近くにいる僕は、真っ先に被害を(こうむ)る。ていうか、その場合、ターゲットは確実に僕へと絞られてしまう。

 その時の苦労と苦痛と言ったらない。夫婦喧嘩に同席していたとしても、そこまでは疲労困憊(ひろうこんぱい)にならないはずだ。

 よって、毎日、アキラを起こすイベントは僕にとって辛いものである。

 それでも放ってはおけない。さて、起こしにいくとしよう。

 すーすーと鞄を枕代わりにして眠るアキラの寝顔を覗き込む。

 いつもは不健康極まりないのに、眠っている時のアキラの顔は健やかだ。苛立っていることが多い顔に怒りはなく、本当に安らかにすーすーと寝息を立てている。

 呼吸をしているのか不安になるほどに。

「アキラ? 帰るよ?」

 薄い肩を軽く揺する。雑音で起きることはないアキラだが、体を揺すると案外簡単に起きる。

 か細い体を何度か揺らすと、長い睫毛(まつげ)が震え、のろのろと瞼が押しあがった。

「……遅い」

 寝呆けているのか、目を薄く開いたまま、アキラはのろのろとした声で呟く。

「え?」

「起こしに来るのが遅い……」

 瞼が重たいのか、のろのろと目を開いたり閉じたりしながら、アキラはそんな愚痴(ぐち)を言う。

 きっと、二度寝の衝動と戦っているんだろう。

 それにしても、起こしに来るのが遅いって……。普通は起こされること自体がダメなんだっていうのに……。

 まあ、二度寝を必死に耐えているんだから、その努力に免じて許してあげよう。今に始まったことではないわけだし。

 それにアキラの面倒を見続けようと決めたのは僕自身だ。

「バイトに遅れちゃうよ」

 僕の言葉に、アキラは眉を(ひそ)める。

 織田さんとアキラは仲が悪いから、会うのが憂鬱なのだろう。

 しばらく視線を彷徨わせて、アキラはもぞもぞと鼻先を鞄に押し付けた。

「ジュース買ってくっから、お前は先に外出てろ」

「はいはい。それじゃ昇降口で待ってるから、早めに来るんだよ」

「ああ……うん」

 大丈夫だろうか……。

 かなり寝呆けてるみたいだけど。

 まあ、アキラに限って問題はないだろうし、先に出るとしよう。



     ◇



 ふらついた足取りで、西棟と東棟の間の渡り廊下に設置された自販機へと向かう。

 足を上げるのも億劫(おっくう)で、何度か敷居に引っ掛かりそうになったが、なんとか体勢は持ち直してなんとかなった。

 ポケットからじゃらじゃらと小銭を取り出して、自販機へと突っ込んでいく。

 えーと……何買おう……。つぅか、何買おうとしたんだっけ?

 頭がなんかまずい。何考えていたのかさえあやふやだ。

 眠い……もう寝てしまいたい……。

「あー、えーと……」

 自販機の前で指を彷徨(さまよ)わせていると、がこんと予想だにしていなかった音が聞こえた。

「うぁ?」

 ふと、気付くと俺の指がいつの間にか、コーヒーを押していた。

 …………。

 言葉を失った。

 何より、無糖だった。

 ……あまりの眠さに無意識でコーヒーを選んだとでもいうのか……。

「マジかよ」

 これでもかというほど愕然した。さらに絶望した。

 買い直すのは勿体ない。しかし、嫌いなコーヒーを飲むのは嫌だ。

 さて、どう処理したもんか。

 眉根を寄せ、しばらく考え込む。

 飲むという選択肢はない。また買い直すというのも一身上の都合により却下(きゃっか)

 捨てたら、シュンが怒りそうだ。

 仕方がない。

 こういう時は大人の味が分かる奴、Tくんに頼もう。



 おそらくシュンたちと共にいるだろう、と思ったTくんは教室で一人(たた)んでいた。

 長めの黒髪に男性にしては細い後ろ姿――間違いなくTくんこと、トモの姿だ。

 トモは窓の縁に軽く腰掛け、何か文庫本に読み耽っているようだった。

 黄昏に沈む教室はどこか薄暗く、それでも窓から真っ直ぐに射し込む斜陽は目を射す。

 教室全体が燃えているようで、床や机の天板は飴色(あめいろ)に輝いていた。その中で床を這うように伸びた影だけがドス黒い。底のない闇のように深く(くら)く、足を踏み入れればそのまま堕ちてしまいそうな恐怖を喚起(かんき)する。

 窓から見えるのは校庭。普段は野球部やらサッカー部で賑わっている校庭にも、今は人影もなく閑散(かんさん)としている。

 普段当たり前のようにあるはずの喧噪は死に絶え、空虚なほどの静寂に黄昏は浸透していく。

 目を焼く夕陽――窓に腰掛けるトモの姿は(かげ)り、まるで影絵のようだ。

「……何、してんだ?」

 憚られながらも、声を投げる。

 深淵(しんえん)さえ存在しないような静けさは、それだけで容易に消え失せた。

「ん? ああ、いたんだ」

 顔を上げたトモは朗らかに笑い、文庫本をぱたんと閉じる。

「いたんだ、じゃねぇよ。お前何やってんだ?」

「何って、読書だよ」

 結構真面目に質問への答えは、嫌になるほど分かりきったものだった。

 少しげんなりとため息をついて肩を竦める。

 普通に考えて、そういうこと聞いてないのは分かんだろ。

 トモは薄い唇の間から浅い息を吐き出し、静かに髪を掻き上げた。

「ちょっと考え事してただけだよ」

「ん? 悩みでもあんのか?」

「んーそんなとこかなぁ」

 腕を組み、右手を顎に添えて、悩ましげに呟くトモ。なんだかその憂いを帯びた表情が似合っていてムカつく。

「篠に聞いてもらえばいいんじゃねぇの?」

「なんでナナカの名前が出てくるのか、到底分からないんだけど……」

 困ったように苦笑いを浮かべるが、なんか白々しく見える。

 ていうか、篠以外に誰を出せと。

「お前ら仲いいじゃん?」

「あー、ないね。ナナカが勝手に付いて来てるだけだから」

 物腰は柔らかくても、なかなか酷いことをさらりと言ってのけやがった。こいつは穏やかな口調とか優しげな微笑とかで勘違いされがちだが、なかなか腹黒い危険人物だ。

 何より、言うことに容赦(ようしゃ)がない。思ったことを歯に衣着せず、ストレートに言ってのけやがる。

「結構付き合ってるとか噂になってるぞ?」

「ふむ、これは困りものですね。僕としては、もう少し落ち着きのある知的な女性が好みなのですが……」

 などと、(かしこ)まった口調で憂鬱(ゆううつ)そうに湿ったため息を吐き出してみせるが、トモはそういった女性からの告白をすでに四回断っている。

 顔立ちや性格から、何かと人気の高いトモだ。上級生からの告白も多いのだが、その告白全てを躊躇(ためら)うこともなく切り捨てているのだ。

 これは何か裏があるんではなかろうか、と勘繰(かんぐ)った者達によって出された結論が「すでに付き合っているか、好意を抱いている女性がいる」というものだった。じゃあ、それは誰か、というところに話は移るのだが、ここにはほぼ満場一致で篠七夏の名前が挙がったんだろう。

 いつも行動を共にしており、お互いを理解し合っているような二人だ。

 まあ、周りがそう思ってしまうのも当然のことだろう。

「それ以前に、ナナカが僕に好意を持っているとは到底思えないけどね。僕みたいに地味な人より、もっと派手な人の方が好きそうに思えるな」

 地味って……派手とは思えないけど、お前は絶対地味ではない。というか、周囲の視線を根こそぎ奪っていくほど見映えがいいと思う。

 最早、嫌味にしか聞こえないぞ、それ。

「そういうアキラはどうなんだい?」

「は?」

「シュンとだよ」

 本日二度目になる根本的に間違っている問いかけだった。

 呆れてため息さえ出ない。

「お前は篠と同じことを訊くんだな」

「これは失敬。常日頃行動を共にしているため、趣味嗜好が似通ってきているようです。いやはや、非常に不服ながら」

 ふむふむ、と研究者然とした様子で頷くトモ……こいつの言動がどこまでが冗談でどこまでが本気なのか、いまいち判然としない。

 どうにも一筋縄ではいかない相手だ。

「あのなぁ、普通に考えて、俺とシュンがそうなるわけねぇだろ?」

「ほうほう、いやはや僕からすると、僕とナナカが付き合うことも同様にありえないわけなんだけど」

 そこまであいつとの可能性を切り捨てるか、こいつは。

 地味に酷過ぎやしないだろうか。

「とまあ、僕のことは置いといて、シュンのことは気になっているんだよ。古い付き合いだしね」

 ことり、とトモの上履きが床を叩く音が耳へと届く。普段は気にならないはずの音が、この黄昏(たそがれ)の静けさの中では異様なまでによく聞こえる。

 教室を抜けた廊下に設置された手洗い場の蛇口からぴちゃりぴちゃりという滴る水音は、何か不安を掻き立てた。

「何が?」

 茫洋(ぼうよう)としたトモの真意を(うかが)うように、押し殺した声で訊ねる。

「シュンは君のことをいつも気にかけている。シュンにとっての最優先は君だ。シュンは誰よりも君を想っている」

 囁くようにトモは言葉を(つむ)ぐ。

 感情を抑え込んだように思える平坦な声は、どこか呪詛(じゅそ)のように魔的だ。

 耳から這い込んだ声は脳へと潜行し、百足(ムカデ)のように肌の内側を這い回る。全身が粟立(あわだ)つ不快感に耐え、腹部の下に力を込める。

「多分、シュンは君のために人生を棒に振る――それを分かっているかい?」

 トモの声は静かだ。まるで未だ誰にも踏み入られていない森の奥深くに宿った湖のように、どこまでも()いでいる。それでも、その声は詰問しているように、俺の体へと打ちつけられる。

「そんなの俺が頼んだことじゃねぇ、それはあいつに言えよ」

「それで聞いてくれるなら僕は苦労しない。シュンはああ見えて強情なのは君も知ってるよね。シュンは君みたいな人を放っておかない。それをアキラには分かってほしいんだよ」

「んなこと言われたって、俺はあいつにさんざん迷惑してんだ。何を改めろっていうんだよ」

「何を改めろって具体的に言うのは、さすがに難しいね。ただ、そうだなぁ。できれば、シュンの想いを少しは理解してほしいかな」

 短く(うめ)きながらも、トモはそんな回答を捻り出す。

 トモなりに考えたんだろうが、俺としては全く分からない。一体、どうしてほしいんだか。

「んー、なんて言ったらいいのやら……まあ、少し気に留めておいてくれればいいよ。僕も上手く言葉にできないみたいだし」

「……一体何が言いたかったんだお前は」

「それが分かれば、僕も苦労しません」

 穏やかに微笑んで、トモは能天気にそんなことを言ってのける。

 言いたいことが分かっていれば、こんな風に話があやふやに終わることはなかったんだから、そう言ってしまえばそうなんだが……なんかこう、納得いかない部分はある。

 俺はトモと会話していながら、何一つ理解できていない。一体こいつが何を言おうとしていたのか、全く分かっていない。

 行き場のない疑問は胸にわだかまって気持ちが悪い。

「さ、僕達も行こう。シュンとナナカを待たせっ放しにするのも申し訳ないし」

 悪意も秘密も一切感じさせない、いつもと変わらぬ屈託(くったく)のない笑みを浮かべて、トモは俺の背中を優しく押す。

「……あ、ああ」

 どうせ、訊いたところで何も話しはしないんだろう。

 言葉にできないことを中途半端に伝えようとはしない奴だ。だからこそ、さっきの会話は珍しかった。

 トモが言い淀み、言葉が見つからず戸惑うところを俺は初めて見たのだから。

 いつでも、冷静に理性的に物事へ臨むこいつにしては、あまりにも感情的な発言だった。

 渡しあぐねてポケットに入れっ放しのコーヒーが、じわりじわりと太腿を冷やしていく。

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