0.後日談

「クロームーゥ。早く早くーぅ」

 晴れ渡る蒼穹そうきゅうに投げたような、語尾がだらしなく伸びた声に呼ばれ、俺は重い腰を上げる。

「ああ、分かった」

 靴の中に入った細かい砂を適当に追い出そうと足を振るが、改善はされなくて気持ち悪い。まあ、砂浜に座ってたんだから当然か。

 ぼさぼさに伸びた髪の奥の頭皮を引っ掻くように頭の後ろを掻いて、俺は生欠伸を零す。最後に、目の前の波の満ち引きを顧みて、ざわめくような波の音に耳を向けた。

 蒼く澄み渡った海。漠々として終わりの見えない沖合。歪みのない水平線は涼しげな水縹みずはなだの空と混じり合い、純白の入道雲が境界線の上を流れている。

 脇に置いていた鞘に納まる刀を拾い上げ、砂を軽く手で払ってから、堤防の上で千切れんばかりに手を振る奴へと目をやる。

 堤防に止められたジープの助手席の上に裸足で立つのは軽装の少女。ここからではよく見えないが、この陽射しが強すぎる真夏にはうざったいくらいに、満面の笑みだろう。

 タンクトップにホットパンツという露出の多めな姿ではあるんだが、どうにも発育の問題上色気はなく、ただ元気しか感じ取れない。あれで実年齢18歳なのだから、世の中は間違っている。

「ほらほら、急げーぇ。日が暮れるまでに町に着かなくなっちゃうよーぉ」

 堤防の上に飛び乗ると、彼女は年齢よりも遥かに幼い口調で言って、ぶんぶんと俺に手招きをする。明らかに年不相応の挙動なのに違和感がないのは、容姿が子供だからだろう。

「大丈夫だ。日没までには着くさ」

 そこからジープの運転席へと着地  もとい着席する。

 隣で彼女は頬を膨らませて、これまた子供っぽく怒り出した。……むしろ18歳って年齢の方が嘘なんじゃないか、とたまに不安になる。

「日没までに着いたってしょうがないんだよーぉ。早めにいかないと、また前みたいに宿取れなくなるよ?」

「その時はまた車で寝ればいいじゃないか。毛布だってあるんだし」

 ぐだぐだ文句を言ってくる彼女に適当な言葉を返し、取り出したサングラスをかけて、挿しっ放しのキーを回してエンジンをかける。ジープが低い唸りを上げ、臀部に振動が伝わってくる。

「やだよー。夜は寒いし、虫に食われるんだもん」

「俺はそんなに刺されないぞ?」

 ハンドルを握り、熱に熔かされ歪んだ風景を見据えながら、なんとなく疑問を口にする。一晩寝てても二か所くらいしか刺されていない。

「そりゃクロームの血がドロドロだからだよっ! あたしのサラサラした血の方がきっと美味しいんだよ」

「ふーん、よかったじゃねぇか。虫に好かれて」

「う……虫の好かないクロームに言われると納得しちゃいそうだけど……」

 誰が上手いこと言えって言った、おい。

「でも虫に好かれても嬉しくないやいっ! ていうか、あたし、あんたの身代わりじゃん!」

「お陰様で俺は快眠だよ」

 これは思わぬところで助けられてしまった。

 なるほど、こいつはうざったいだけかと思ったが、旅の相棒としてちゃんと俺に貢献してくれていたわけか。これは離れるには惜しいかもしれない。

「あたしは快眠じゃな  って、うわ……!」

 言葉半ばでアクセルを踏み締め、ジープを発車させる。

 助手席で四つん這いになって俺に詰め寄っていたあいつは、急発進で背凭れに倒れ込んだ。

「舌噛むぞ」

「遅いってぇの……」

 呻くように言って、起き上った彼女はシートにちゃんと座り直す。

 道は舗装が雑な上に継ぎ接ぎが多くて、車体は断続的に何度も揺れるため、あとで尻が痛くなりそうだ。

「ああ、もぅ! クロームは思いやりがない!」

「思いやりはある」

「ない! ないったらない! 見当たらない! 見つからない! 砂漠で一つの指輪を見付けるより難しい!」

 ……これは酷い言われようだ。

 なんで俺がここまで言われなきゃならない。

 少しムカついたので、曲がり角をドリフトしながら曲がる。

「ぎゃっ!」

 隣で悲鳴っていうか、なんか奇声。

 どっかに頭でもぶつけてくれたらしい。狙い通りだ。

「イジワル!」

「性悪だよ」

 意味のない訂正を加えて、嫌味っぽく口の端を吊り上げる。

 自分で言うのも何だが、益体のない話だよ、本当に。

 ため息を吐き出して、ハンドルを片手で動かしながら、サングラスを押し上げる。

「ねぇ、クローム?」

「んあ?」

 しばらく車を走らせ、草原の真っ只中を進んでいると、今まで頬杖をかいて外の風景を眺めていたあいつが、ふと口を開いた。小気味のいい振動の心地よさに、眠たげに目を細めていた俺は、突然の言葉に不鮮明だった意識が引き戻される。

 あ、危ねぇ。まどろんでた。

「次の町には、幸せがあるかな?」

 縋るような彼女の問いに、俺は片眉を吊り上げた。

「さぁね。それは箱の中の猫と同じだよ」

 俺は答えを持ち合わせていない。全てはこいつ次第だ。

 身勝手な希望も、勝手な絶望も、与えてやるつもりはない。

「見えたぞ」

 緑と蒼に引かれた地平線の向こうに、森厳とした壁がはっきりと見え始めている。地面から生えてくるように、地平線の向こうから姿を現したそれは高い城塞。

「わ……すごい」

 彼女は身を乗り出して、顔を輝かせている。

「こりゃ、町つぅより都市だな?」

 情緒での話だけど、町って片付けるのはなんかあれだ。

 地図は簡易的なもので、あまり詳しく書かれてなかったが、なるほど、随分と省略されていたもんだ。

 これは少しくらい期待してもいいかもしれない。

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